1951(昭26)年7月
半島の一郭を占める人口約1万4,000人の小財政規模の常滑町と
隣接の西浦町、鬼崎町の3ヵ町の有力者が発起人となりモーターボート競走事業のための株式会社を設立
後、大野町も加入
1951(昭26)10月1日:社団法人愛知県モーターボート競走会設立認可
1952(昭27)年1月24日
全国モーターボート競走会連合会より競走場建設の事前審査申請が承認される
1953(昭28)年7月10日:常滑競走場にて初開催される(施行:4ヵ町施行組合)
天候、快晴。
入場者 6,045名、売上 4、960、900円
期待以上のものであった
1953(昭28)年9月25日:台風13号来襲甚大なる被害を受け一時開催を中断する
被害総額、実に20,000千円
1954(昭29)4月1日:4ヵ町施行組合解消、市営となる
常滑町、西浦町、鬼崎町、大野町、それに三和村が加わり5ヵ町村合併による市制施行に基づき
組合は発展的解消をなし常滑市営となる
台風の影響は長く尾を引いた
街の復興も一応形だけは整ったとはいうものの台風で受けた損害を取り返すに血眼であった
ましてや競艇場に来てレジャーを楽しむなど心の余裕はなかった
事業に対する批判も高まり
当時競艇場に来るファンは隣近所に知れないよう
わざわざ別に用事を作ったり、なるべく人目に付かないよう裏道を廻って来場されたとのことである
競艇の施行には、いつ果てるともわからない苦難の道が続いた
1958(昭33)年1月14日:半田競艇との合併問題起る
小さな半島の中に、例え東側西側と分かれているとはいえ同種の競走場が2ヶ所もあっては
運営が成り立たないのではないかとの理由で
東海海運局(現中部運輸局)並びに受任団体が中心となり、半田競艇との合併について話し合いが進められた
1959(昭34)年9月26日:伊勢湾台風(台風13号)来襲、壊滅的打撃を受ける
執行本部、主審、副審をはじめ協議本部、選手控室など主要建物はほとんど流失
約280平方米の艇庫、整備庫は原形をとどめないほど吹き飛ばされて大破
コンクリート道路もずたずたに切り裂かれ見るかげもない
損害額は30,000千円以上となった
当初80,000千円余の借入金でスタートしその後僅かではあるが収益金を借入金の返済に充て
前年度末には借入金も63,000千円とまでに漕ぎ着け
やりくり算段ながらも徐々に返済の希望も出てきた矢先
約20,000千円の痛手を受けた去る昭和28年秋の13号台風に次ぐ2度目の大きな災害だけに
関係者もさすがに茫然自失となった
同様に被害を受けた半田競走場は
1959(昭34)年11月12日
競技場の施設のほとんどを失った半田競艇では、再び費用をかけて再開する意思なしとの結論となり
半田市議会で廃止が決議された
1964(昭39)年7月23日
両市の親善を図るため月間2日間を半田市に競走場を貸与、半田市営競走が開催された
ファンあっての競走場であれば収益金の一部ではあるが当然来場者に何らかの形で還元すべきであるとの主旨により
1965(昭40)年度より施設改善に着手
来場者が満足されるよう
「環境の良い競走場家族連れで安心して楽しめる競走場」をモットーとして順次改善工事が進められ
1967(昭42)年7月:全国各位のお許しを得て
新装のレース場で過去15年間せめて1度でもと事業に関係した者全員が祈念し続けてきた
「4大競走」の1つである
第13回モーターボート記念競走を主催する光栄に浴し得た
<昭和44年度・常滑市・半田市主催・連勝単式勝舟投票券>
愛知県常滑市新開町4丁目111
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